乙亥/晴れ

午前中、街の大きな新華書店まで出かける。地図を見ると10kmも無いようなので、歩いて行ってみる事にした。日本では私がどこへでも歩いて行ってしまうことを今更不思議に思う友人も少ないのだが、こちらでは毎朝ジョギングをしていることさえある種奇異の目で見られているので、街まで歩いて行ったなんて言うと更に変人扱いされることだろう。(なので言わない)
新華書店には欲しい参考書を探しに行ったのだが結局見つからず、安売りしていた「論語」と「成語故事」といつ読むのかわからない「海辺のカフカ」を購入する。帰ってから、村上春樹の中国訳本に対する序言と訳者である林少華の序言だけ読んでみた。
外国文学と言うものを本当に理解するには原著で読むしか無い、しかも原著で読む事ができる語学力があってもその国の背景をもある程度理解しているのといないのとでは全然違う、と言う話を以前コバヤシさんとしたことを思い出した。コバヤシさんが言っていたのは確か、欧米文学の背景にある「基督教」の存在の大きさ(それは衣食住と同じくらい自然に彼らの中にあるもの)で、翻訳者が原文に含むそうしたニュアンスを読み取る力が無ければ、頓珍漢な訳文が出現する可能性もあると言うことだった。同様の事は結局映画の字幕にも言え(私たちは時々頓珍漢な字幕に出会う)、じゃあどうすれば良いかと言えば、どうしようもないとしか言いようが無い。
その上、背景を理解するしない以前にも、翻訳と言う作業には度々ずれが生じるものだ。現在中国語を勉強していると、それは身にしみて感じる。だからこそいちいち頭で翻訳するのではなく、中国語をその時の状況における言葉として理解する訓練をしないといけないわけだが、本を翻訳すると言う作業においては、小さなずれは無視しなくてはならない。そうして出来上がるものは「内容は同じだが別の小説」と言うと言い過ぎかもしれないが、それを読んでも厳密にはその本を読んだ事にはならないだろう。と言うのも、日本語には意味だけではなく、その響きやリズム自体が持つ美しさがあるからだ。もちろん、外国語もきっとその国の言葉それぞれの美しさがあるに違いない。例えば詩歌の類いは言葉の持つ美しさを最大限に生かしたものなので、翻訳するとそのずれは往々にしてとんでもなく大きいものになってしまうのだ。
中文版「海辺のカフカ」を買ったのはもちろん中国語の勉強の為である。訳者の序言を読みながら感じたのは、私は日本語で村上春樹の作品を読む事が出来て幸せなのだナアと言う事であった。